母親を自死で亡くした私のブログ

母親から精神的虐待を長年にわたり受け続けた娘の日記です。母親は2017年5月に自死しました。

美しさと服従

今日は1day インターンシップに行ってきました。
このインターンシップには選考がなく、抽選で当たったものでした。
たまたまとても美しい女性と一緒のグループになって、一日中彼女を目の前で拝むことができました。
彼女は造形が美しく、声が美しく、
振る舞いが子猫のように無邪気でした。
まっすぐで、自分を良く見せようとしていない。
美しい人というのはそうなるべくして生れたような気がしますね。
美しいから、まっすぐに育つ。
美しいから周りの人にありのままを受け入れてもらえる。
ありのままで大切にしてもらえる。
だから子供の頃から変わらず、無邪気なんだと思います。
ここでいう無邪気というのは、他人に自分の価値を認めてもらおうとしないということです。
逆に無邪気じゃない美人は、たとえ顔が整っていても、美人だとは決して言えないと思います。
顔が整っていても、声がきれいじゃなかったりとか、
振る舞いが男っぽかったりとか、承認欲求にかられていたりする人は、
どんなに顔が整っていても美人とは言えません。


私は、人の姿形自体は、モデルや女優にならない限りそれほど重要じゃないと思うんです。
ある程度整っていれば、多少の欠点は見過ごせます。
ただ美人になるためには、どうしても声が美しくないといけないのと、
言葉遣いが汚くないこと、そして無邪気な振る舞いであることが必要です。


無邪気な美人ほど私がガーンとやられる存在はないですね。
私がいかに劣った存在であるかをありありと感じさせられるのですが、それがまた心地よい。
恍惚の果汁を飲み干すように、彼女の顔を見つめる。
眼福とはまさにこのこと。
私は最近、自分の顔が整っていると思うようになりました。
しかし私は、今日目に焼き付けた美しい人のようには絶対になれない。
私はこういう美人と対局してしまうと、不器用な幼児に一気に逆戻りです。
手がゴム鞠になったような錯覚を受ける。
一気に、彼女の美しさにのまれてしまう。
彼女が私に飽きて蝶のようにヒラヒラと飛んでいってしまわないように、必死に彼女を留めようとする。
できればガラスの瓶に閉じ込めておきたい。
しかしそんなことは無理で。
私はただただ、彼女の美しさをこぼさまいと、必死に享受しようとするみじめな目玉の一対に還元されてしまう。
美しさというのはまさしくドミナントですよね。
私は美しさの前にひれ伏す他ありません。
姿形が整った人はいても、ひれ伏したくなるほど「美しい」人はなかなかいません。
「美しい」人は、私をひれ伏させるような権力を持ちながら、それに全く無自覚で、
私に優しく接してくれるのです。
それがますます私を後ろめたい気持ちにさせ、余計に私のやましさがはっきりしてくる。
彼女と私の間の断絶が広がり、彼女は遠い遠い高嶺の花、もはや神のような存在にまで昇華される。
これは人間は全員感じるものなのでしょうか。
人間は美しい存在にひれ伏したくなるものなのでしょうか。
もしかしたら神というのは、この原始的な感情、
服従への欲求から生まれたものなのかもしれません。