母親を自死で亡くした私のブログ

母親から精神的虐待を長年にわたり受け続けた娘の日記です。母親は2017年5月に自死しました。

生きるということ

私は一度、自死遺族の人がお互いに話すことのできる集会に出席したことがあります。
子供を自死で亡くしたお父さんやお母さんがほとんどで、逆に親を自死で亡くした子供はほぼいませんでした。
でも私の場合、私が自死で死ぬ確率と、母親が自殺する確率はほぼ同じだったんじゃないかと思います。
もちろん母親はもう将来もないし、きつい仕事をしていたし、客観的に見れば母親の方が状況が暗かったかもしれません。
しかし私は若く、学生身分である一方で、確実な「絶望」を抱えていたような気がします。
これは母親が私と同い年だった時には絶対に感じていなかったレベルの絶望だと思います。
母親は大学生だった頃の楽しい思い出を私によく話しました。
サークルや、ゆるい授業。
バブルでの就活。
死人に文句をつけるのはいかがなものかと私も思いますが、私は少なくとも今までの20年間の人生を振り返ると、母親の何倍も不幸せだったと思います。
私は大学に入ってからは勉強地獄で、サークルでもとけ込めず、そして将来の就職に関する希望も全く持てませんでした。
そして大学1年生の時に自殺未遂を再びしました。
母親が死んだのは大学二年生になってすぐのことでした。
振り返ると、やっぱり母親の死因は、彼女の計画不足だったのではないかと思います。
私は遠慮なく言いますが、母親は自分に甘すぎたのです。
結婚して、専業主婦になって、
それで離婚して。
子供の精神状態には全く知らん顔。
気にくわない元夫には子供は絶対に会わせない。
歳をとった、経験のない彼女を待っていたのはきつくて低賃金の仕事のみ。
友達がいないため、ストレスを発散できるのはこの私に対してだけ。
私に怒鳴り散らし、精神的に追い込んだ。
母親は、本当に、誰の得にもならない存在でした。
私から家族を奪い、私の父親から娘を奪い。
彼女と関わりを持つ人はなんらかの不幸に追い込まれる、まさしく疫病神でした。
母親は性格が悪く、友達も作らず、子供だけ作ってその子供に当たり散らし、自殺に追い込むような人間でした。
彼女が自殺したのは至極自然なことでした。
むしろもっと早く自殺しなかったのが驚きであり、残念です。
私も母親のように、性格が悪く、友達もいませんが、
一番大きな違いは子供を絶対にもうけないということです。
子供を産めば、自分の血肉を分けた存在に「お前は存在しない方がよかった」と言われることになるのですから。


私は、母親を否定することによって、自分を否定しているのでしょうか?
母親が嫌いだ、もっと早く死ねばよかったのに、ということは、
私は生まれたくなかったということなんでしょうか。
この世に存在する人は、一部の富や美貌や才能に恵まれた人を除いて、
基本的に苦しいんじゃないかと思います。
でも生きることが苦しいのは、生まれたくなかったということとイコールでしょうか。
私を現在生きさせているのは、赤ん坊の私を子宮からひっぱり出し、
最初の息を吸わせたあの「生への意志」です。
この意志は、生涯を通して衰えることはありません。
それにしても自然界は、よっぽど生を肯定しているんですね。
生き物がなぜ生きるかというと、子供を産んでもっと生き物を増やすため。
ただ生きて産むことが、生き物の存在する理由。
どこからともなく湧いてくる「生への意志」のためだけに、生きる。
こんな不条理なことがあるでしょうか。
なぜ、何もないのではなく、何かがあるのでしょうか。
こう考えると、何かしらの存在が、生きることをよしとしたのではないでしょうか。
その存在の意志が、私たちの身体の中に、否が応でも内蔵されている。
私はもちろんそれを疎ましく思います。
でもあるものは仕方ない。「生への意志」をなくしたいと思ったら、それこそ覚せい剤をやるとか、そういう方法しかないと思います。
というわけで、私は「生まれたくなかった」のではなく、「当時は生まれたかったけど、今は生きていてもうれしくないと思うようになった」ということがより正確な説明だと思います。
「生きていてうれしくない」というのは生物学的にどういった状況なんでしょうか。
「生への意志」が私たちの日常をサポートしきれないのだと思います。
生命が脅かされている時にはちゃんとこの意志が介入してきて、生き延びられるように最善を尽くしてくれるのですが、
生命が脅かされておらず、食べ物にも困らない時は、この意志が介入する必要はないわけです。
だから、生命にただちに影響はないことで失敗をすると、デストルドーが介入してきて、自殺をちらつかせる。
実際に自殺を踏みとどまらせるのは、「生への意志」ですが、
もしこのデストルドーが長い間、深いレベルでその人に干渉していたら、
それに「生への意志」が勝てないのだと思います。
自殺はこの点で非常に不自然だと思います。
オールマイティーな「生への意志」が負けるなんて、ちょっと理解し難いですよね。
「生への意志」を植えつけた存在からすれば、自殺は非常にムカつくことだと思います。
多くの宗教が自殺を罪とするのも頷けますね。
「生への意志」を植え付けようとするあたり、この存在はどうやら、こだわりが強いようですね。
「このままでいい、レットイットビー」なんて絶対思ってませんね。
この存在は「光あれ」と命令し、強制的に光をひねり出し、
「産めよ増やせよ」と命令し、強引に無機質から生き物を作り出した。
こう書くと私がキリスト教の神を信じているようですが、私はキリスト教にはこだわっていません。
この存在は、神だろうとなんだろうと、かなり強引だと思います。
なので私たちが抜け道を見つけないように、あらゆる対策を取っていると思います。
抜け道(自殺)をとっても、非常に苦しいことは明らかです。
「楽だ」と謳われている死に方でも、実際にそれに踏み切るまでの精神的な恐怖とか、苦しみ、そしてやっているときの苦しさなんて、自殺に成功した人はもちろん書けないわけですから、実際は未知数だというところがあります。
また、他にこう主張している人がいるか知らないのですが、
もし神が、他になんの目的もなく、ただ生きることをよしとしただけでこの世界を成り立たせているとしたら、
死後の世界とか、生まれる前の世界とかに気を配るはずがないと思うんですよね。
「ではなぜ生き物は死ぬのか」という問いに対しての答えはないんですけど。
無限に生き物を生み出し続ける方がよっぽど賑やかで良さそうですよね。
いや、もしかしたら神は私たちの考える「死」を「死」として認識していなかったのかもしれません。
生き物は死んでも、子供が新たに生まれて、その代わりを務めるから、別に同じ個体に執着する必要はないと考えたのかもしれません。
今までのアブラハム系の宗教は、死後の世界を前提としていて、その死後の世界での身分を獲得するために現在があるのだという主張をしていましたが、
これらは個人の救済が主な目的となっている気がします。
「生き物を死なせる」ということ自体個体に執着しない現れなのに、
「死なせる」ということを個人の将来に帰属させるということは、かなり恐れ多いことをしてるなあと思いました。
考えてみると、人間と他の動物が明確に違う運命を背負っているなんて、バカバカしいと思いませんか。
そもそもいつから猿が人間になったかなんて、学者でも定義づけるのが難しいのに。
私はこの限りなく無に近い神なら信じられる気がします。
この神がなぜ生きることをよしとしたのかは見当もつきませんが。


結論として、「生きていてもうれしくない」と感じる場合は、
「生への意志」が介入してこない程度の失敗にクヨクヨせず、
また「生への意志」が介入できるぐらいに命を危険に晒したり、体を動かしたりすることが大事ということです。
こう書くと、刑務所に入るのが理想的な生き方みたいになってしまいますが。
長々と書いておきながら至極当たり前な結論になってしまいました。