母親を自死で亡くした私のブログ

母親から精神的虐待を長年にわたり受け続けた娘の日記です。母親は2017年5月に自死しました。

人生ドッキリ説

よゐこの濱口が壮大なドッキリに騙されるというテレビ番組の録画を見ていました。


濱口のとる行動をあらかじめ予想して作り込まれた、精巧なドッキリの数々でした。


彼は自由意志に基づいて行動をしていると信じて疑いませんでしたが、


実際は彼の行動は全て誘導されたもので、彼は普通だったらしないような選択をさせられ、見事に番組の掌で踊らされたのです。


これを見て少し自分の人生が不安になってきました。


この番組(めちゃイケ)での演出は、確かに荒唐無稽ではありましたが、


私の人生ももしかしたらドッキリなんじゃないかという疑惑が浮上してきました。


たかがテレビ番組がこれだけ精巧なドッキリを仕掛けられるなら、


超人間的な存在が仕掛けるドッキリはより大掛かりなはずです。


私の人生も荒唐無稽ですから。


特に母親の自殺とか。


絶対ドッキリだったんじゃないかと思います。


母親が死ぬところを私は見てないし、


母親の部屋には首を吊るときに蹴ったと思われる椅子があっただけでした。


何通かの電話、祖母と警察の迫真の演技。


葬式では親戚とのトークに気を取られ、母親の遺体を見たのはほんの数分で、


触れるのが怖くて触れもしませんでした。


顔は本当に死人って感じの顔でしたが、もしかしたらあれはただの人形だったんじゃないでしょうか。


毛布に隠されて見えない肩から下は何もなかったんじゃないでしょうか。


本当は母親はドッキリカメラの向こうで笑い転げてるんじゃないでしょうか。


警察の人も。


いや、多分母親も警察も普通に暮らしていて、知らない間に仕掛け人をやっていたんです。


私もおそらく誰かのドッキリの無自覚な仕掛け人なんです。


私たちは全員、操り人形なんです。


操る側は私たちを誘導し、罠に陥れ、リアクションを見て笑ってるんです。


私の中で怖かったり気まずかったりした経験は多分全部ドッキリネタですね。


グループディスカッションのときに上手く話せなかったこととか。


友達が私を家に呼んでおいて、眠くて一人で布団に入って寝始めたこととか。


それに対する私の反応を見て、観客が画面の向こうで笑い転げたりダメ出ししたりしてるんです。


私のしてきた選択も、よくよく考えてみると、確実に誘導されたものだったのです。


仕掛け人に説得されて、もしくは情報操作によって誘導されて、私は今までの選択をしてきました。


それらは、ドッキリの趣旨からして、私をコケにするため、あるいは私をどこかの時点で辛い目に合わせるために用意された道でした。


それを自由意志で選び取ったと信じ込まされているだけです。


自由意志で選び取ったという信念があれば、より精神的なダメージが強いからです。


それでは、ドッキリをやめてもらうためにはどうしたらいいのか。


精神的・物理的反応を限りなく0に抑える。


心を乱さず、物理的にもリアクションを取らない。


ドッキリは一時的に加速するかもしれないけど、あとはほとんどなくなるでしょう。


何も反応しないものをいじめたって楽しくないからです。


どんな成功も失敗もドッキリのネタにしかならないと知れば、


人生というドッキリに執着を持たなくてよくなります。


また、ドッキリには「教訓を学ばせる」という目的や、「良い行いをしたら少し待遇を良くしてあげる」などという性質があります。


私たちが教訓を学び、道徳的な振る舞いをし、精神的・身体的リアクションを0に近づけると、私たちはドッキリを仕掛けられなくなります。


これって、まさしく仏教の教えそのものではないでしょうか。


心を落ち着かせるのも、いい行いをするのも、


結局はドッキリを免れるために他なりません。


人生ドッキリ説は独我論を意味しません。


観客からしたら、私だけでなく他の人の失態も見れた方が楽しいと思うので、他の人も確実に存在していると思います。


人間が作り出した全ての知識や情報、モノっていうのは、


自らの人生での不快を避けるために存在しているわけです。


しかしこれらは驚くべきことに、ある人にとっては有用であっても、別の人にとっては有害だったりするわけです。


そのごちゃ混ぜの中で、私たちはドッキリにかかっている以上、有害なものへと、悪い方へと誘導されていくのです。


被験体である人間が作り出したものは、今後のドッキリをする上での重要なツールになっています。


また、もう一つ気づいたことが、この人生がドッキリである以上、


この人生では何も意味のあることは成し遂げられないということです。


濱口は、大学受験をするというドッキリで、架空の大学に合格し、架空の大学の入学式に参加しました。


彼は努力が報われたと考えたでしょう。


しかしそれは全部嘘だったのです。


ドッキリの目的は、彼が結果を出すことでなく、その過程の観察にありました。


彼は努力しても、何も成し遂げられなかったのですが、それでドッキリの役目は果たせました。


この人生で何かを成し遂げようと思うのは、ドッキリを仕掛ける側の思う壺です。


それがいいことか悪いことかは、はっきりとはわかりません。


私たちはすでに、将来確実に死ぬことを知らされています。


なのである意味、ドッキリのネタばらしはすでにされていることになります。


それでもドッキリに乗るのは、そっちの方が楽だからです。


何もしないより、何かする方が楽だからです。


ドッキリを卒業することは可能なのでしょうか。


もし可能だったら、それは仏教でいう「解脱」に至るということだと思います。


人生は自分でどうにかできるものではないし、また真の意味で何かを達成することもできません。


ドッキリの目的は、あくまで私たちを困らせ、リアクションを観察することなので、


どんな道を選んでも、確実に困ります。


なのでドッキリに乗る以上、私たちに選択の余地は実質ありません。


選択したと思っても、それは誘導されただけです。


私たちが能動的にできる選択は、ドッキリに乗らないという選択か、ドッキリを楽しむという選択だけです。


ドッキリだとわかっているとした上で、その中で遭遇するイベントなどに自分でツッコミを入れながら楽しむ。


ドッキリに乗らないという選択は何事にも執着しないという鍛錬された精神を要するのに対し、


ドッキリを楽しむという選択は誰にでもできます。


心に余裕を持ち、自分がすることに何の意味もないことを自覚した上で、


いつも通りに生きていく。


ドッキリだってわかってるんだぞ。


今度腹が立ったりした時は、そういう風に心でいうようにしようと思います。